ユーラシアパンクめぐり #35 イスタンブール②
トルコの長距離バスはとても心地よい。そして今回も乗客みんなが僕に優しい。
となりの席はイラン人のアリ。
真夏にワイシャツとスラックスを着込んだ、太い眉毛が印象的な青年だ。
イランという国は、アメリカと敵対する悪い国、またはイラクと近くにあるので危険な国、というのが世間一般のイメージだ。したがって、イラン人というのは粗野で乱暴でへそ曲がりの人々なんだろう。ご多分にもれず、僕もそう思っていた。
だけどアリは物事に対して公正な目をしっかり持っていて、彼がしゃべる内容も機知に富んでいて、とにかく格好いい紳士のようだった。
アメリカに対しても、「もちろんアメリカ人全てが悪いわけではないが」と前置きしてから、
「アメリカは、イランが核を持っているという理由で敵国とみなしている。だけど、キミももうわかってるだろ? 本当は石油が欲しいのと、イスラエルの周囲にある脅威を取り除きたいからなんだ。とんでもない国だよ」
と、時々ニヤリとしながら精一杯の英語で語った。
アメリカの悪口を言うのにも英語を使わなければならないんだよ僕たちは。
もう一人、前方の座席に座るグルジア人の美男子、ヴィダディも何かと僕のことを気にかけてくれた。
彼はこの秋に結婚を控えていて、その資金稼ぎのためにトルコで働くのだという。その間彼女には会えないけど、いつも彼女の写真を携帯電話の待ち受け画面にしているから平気だ。そう言って見せてくれた写真は、とても美しく微笑む、栗色の髪の女性だった。僕は心からヴィダディを祝福した。
アリとヴィダディはバスがサービスエリアに止まるたび、お互い競い合うように僕に何か買ってくれた。ケバブサンド、チャイ、チョコレート、お菓子、チリ紙などなど。
面の皮が厚い僕もさすがに悪い気がしてきて「もういいよ。ありがとう」と言うのだが、彼らは
「いや、俺たちに任せてくれ。だってキミは旅人なんだから」
と一歩も引かない。
夕方の5時ごろにグルジア・トルコ間の国境に着いた。
(国境付近)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sarpi_Village,_Georgia.jpg
バスを降りたそこには、イミグレーションの建物に入りきらないほどの行列。僕は二人に連れられて列の最後尾に並んだ。
今まさに黒海に沈もうとする夕日。一向に進まない人の群れをノスタルジックなオレンジ色が射抜いていた。
グルジア側の出国審査や荷物検査はあっけないくらいすぐに終わった。
さすが日本のパスポート。信用度が違う。
すると、僕のすぐ後に並んでいたヴィダディがニヤニヤ笑って僕に囁いた。
「係官たち、けっこう適当なんだな。キミのパスポートを見て、『何だコレは?』『ジャパン? わからん。まあスタンプ押しとけ』って言ってたよ」
トルコに入り、すぐにレストランで停車。僕はまたもケバブを食べ、バスに乗り込んだ。夜が深まり、僕がウトウトしている間にヴィダディは下車していた。
翌日の午前中にバスはイスタンブールのアクサライ地区に着いた。
いくら快適とはいえ、さすがに24時間もバスに揺られるのは体にこたえる。
それに、調子に乗って食べまくったケバブのおそらく生野菜がまた僕の腸内を激しくゆさぶった。
バスを降りてから、もはや僕の守り神となったアリにトイレまで案内してもらった。
僕は鬼の形相でトイレ代1リラを払って、ギリギリセーフ。
今までも別れは突然だったから、わざわざ胃腸の弱い日本人のトイレを彼が待っていてくれるなんて期待していなかった。しかし、アリはそこにいた。
「何から何まで、ありがとう」
こういう場面に、英語の「サンキュー」では決して伝わらない想いがある。僕はとてもはがゆい。
最後にアリは、イランは反米政治のためにイメージが悪くなっているが本当に素晴らしい国だ、と言った。
「When you come to Iran, My house is your house!」
私の家はあなたの家。
こんなにシンプルで心を打つ言葉がほかにあるか? 最後に名台詞を残して、アリはイスタンブールの人ごみの中へと消えていった。
いつか必ずイランへ行かなきゃ。
イスタンブールは旧市街が面白い街だ。
歴史的な建造物や、大小さまざまなモスク、そして露店がひしめくグランドバザールなど。安宿もその付近にある。
レストランのテラスで水タバコをくゆらすオヤジたちに道を聞いて目当ての宿へと向かう。石畳の上り坂を越え、細長い車体で走るトラム(路面電車)とすれ違う。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Istanbul_T1_line_Alstom_Citadis_tram.jpg
ピカピカの車体はかなり洗練されていて、なんだか少し風景から取り残されているようだった。
見どころの多いスルタンアフメット地区までやって来た。
細い路地に土産物屋がずらりと並ぶ一角の、ハーモニーホステルという宿に決めた。さすがのハイシーズンなので、ドミトリーで一泊30リラ。約1100円だ。
宿のワイファイを使ってヒロキ(Flat Sucksドラマー、大学の先輩、同郷出身者。ちょうどトルコでブラブラしている)に連絡してみた。
しかし一向に返事がない。彼もイスタンブールに着いていることは確かだ。すでに僕の到着日時を伝えておいたというのに……。
そう、そうだった。あいつは自由なんだった。
その昔僕が一緒にバンドをやりませんか、と誘ったとき、「俺たばこキライだから俺の前で吸わないならいいよ」と言っていたヒロキ。あれは西大路御池のハイライトという食堂でだった。チキンカツの衣がテラテラと光っていたっけ……。
そして何度かライブをこなした後、気がつけばアークロイヤルとかいう常人にはたどり着けないレベルの小粋なタバコをふかすようになっていた。
あの男がこんなに刺激的な街に囲まれながら黙ってワイファイのある場所にこもっているはずがない。誰にもヒロキをひとつところに留めておくことはできないのだ。そう、山河の清水が一時も流れを止めないように。
3、4時間待っても何の音沙汰もなかった。どうやら感動の再会は明日に持ち越しのようだ。
こうなれば僕もここにこもっているのがアホらしくなってきた。一人寂しくトルコ料理でも食べに行こう。
通りに出て、トラム沿いの道をあてどもなく歩いていると、向こうからいやに短い半ズボンを履いた男が歩いてきた。
両足を覆う濃いスネ毛がズンズン近づいてくる……。
待てよ、あのキレイな脚のライン、あいつはまさか……。
「ひーさん!」
まるで大学構内でばったり会ったかのような、あっけない再会だった。だが、乾いた異国の風景がじわじわと感動を引き立ててくる。言葉にならない喜びを発しつつ、僕達は抱き合った。
「何してんですか! もう会えないかと思いましたよ」
「いやー、ごめんごめん。ワイファイがなかなかなくって。それにしても俺たちってやっぱりなんか惹かれ合っちゃうんだねえ」
ヒロキの相変わらずの純粋な笑顔は健在だった。
互いに祖国を離れて早や三ヶ月。言いたいことは山ほどあったし、聞きたいことも同様だった。
適当に街をふらつき、ガラタ橋のふもとで名物のサバサンドやトルコアイスを食べている間にも、僕たちは次から次へと日本語を吐き出していった。
(どっかのバーにて)
「で、どうだったの、ルーマニアでの生活は」
「もうね、本当シビウの街は最高だったよ。変に発展してないし、穏やかなんだけど、すごく芸術に力を入れててね。カオルも絶対行った方がいいよ」
「へえ。ところで、一体何の仕事だったんです? いまいち良くわかんないんですけど」
「まあ、シビウ国際演劇祭っていうのがあってね、日本はもちろん毎年いろんな国からパフォーマーたちが来るわけよ。で、その人たちをいろいろと案内したり、通訳したりっていう仕事。要はアテンドっていうやつ」
「そうなんですか。僕はてっきりひーさんもブイブイ踊ってたのかと思ってました」
「できればやりたかったんだけどね。ほら、これが仕事中の一コマ」
ヒロキは鞄からデジカメを出すと、演劇祭での写真を見せてくれた。
「……ねえ、なにかしら恋のアバンチュール的なものはあったの? どうせあったんでしょ?」
「手伝いに来てくれた地元の女の子がね、すごい美人だったよ。いい感じになりそうだったけど、一ヶ月間だけしかシビウにはいられなかったからね。そういうカオルは?」
「いやー、全然だめですよ。さすがにちょっと期待したんですけどね。あ、ハノイで泊まった安宿の娘っ子にはトキメキましたけどね」
「やっぱ難しいよね」
街に響きわたるアザーンを聴きながら、僕ははじめて一人で旅をしていることを後悔した。
気心の知れた友だちと一緒だったら、もっと多くのライブやイベントにも行けただろうし、一人貪る夕食の哀しさを感じることもなかっただろう。
「ひーさん、ライブしたいですね」
「したいねえ」
「早めに日本帰ろうかな」
「まあそれもいいんじゃない?」
「嘘ですよ、嘘」