ユーラシアパンクめぐり#36 プロヴディフ(ブルガリア)

建物の看板や道路標識に読めそうで読めない文字が現れた。

 

 

ここはブルガリア。これから何度キリル文字と格闘することになったか。

ブルガリア第2の都市プロヴディフに着いたのは、真夜中の12時30分ごろだった。

小奇麗なバスターミナルで降ろされて、僕はそのままバス停のベンチで寝ようとした。すると、受付嬢であろう、金髪を後ろで束ねた、仕事ができそうな女性がすぐさま僕を起こしにきた。

「ミスター、ここはもう閉めますのでよそへ行ってくださらない?」

 ジョージアやトルコの美人とはまた違う、丸い輪郭に人懐っこさが現れているような東欧の美女だった。糊の利いたベストがふくよかな胸を締め付けている。

これはまた素晴らしい国に来たもんだ。

 僕が生返事を返したまま彼女の目をじっと見つめていると、彼女はもう一度同じようなことを、少し強めの口調で言った。

 すごすごとバスターミナルを後にしてあてどなく電灯もまばらな夜道を歩くと、すぐさま鉄道駅が見えてきた。プロヴディフ中央駅。

 駅構内は24時間開放されているようで、僕と同様に朝を待つ人がちらほらと見受けられる。横になって高いびきをかいているハンチング帽のおっさんを見習い、僕も木製のベンチに寝転がった。バックパックをしっかりと抱き、貴重品はパンツのゴムの部分と肌で挟んだ。

よくよく考えたら、初めての駅泊だった。

 ベンチが硬くてなかなか眠れずにいると、僕の頭に年老いた母親の顔がぼんやりと浮かんだ。

 母はいつも楽しそうに笑っている。

 見合いで結婚して、父の家に入り、祖母にいびられながらも三人の子供を育てあげた母。生徒や親に悩まされながらもずっと中学の教師であり続ける母。

 上の二人が順調に金を稼ぎはじめたころに、クズがひとりはみ出してしまった。

 

電話越しに、仕事を辞めたことと翌日から長旅に出ることを同時に伝えた時はさすがの母も愛想をつかすかと思いきや、いつものように「体が大事なんだから、しっかり食べなさい」と言って僕を気遣ってくれた。

いつまでも心配をかけてしまう自分が情けない。

そして母が送ってくれるよくわからん健康ドリンクを好きになれない自分が情けない。だってなんかドロドロしてて、甘ったるくて……、

 

 

 全く疲れが取れぬまま朝を迎え、僕はバックパックを背負って街に出た。

プロヴディフ中央駅

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Plovdiv_Railway_Station_TB_1.jpg

 

 

 駅から北に延びる、ボリス3世大通りをひたすらまっすぐ進む。背の高い街路樹が10メートル間隔で植えられており、早朝の陽光がチラチラと心地良い。細い路地へ入ると、木々はますます増え、四角く淡色な家々を覆い隠すほどだ。旧市街に入り、石畳の坂道をせっせと上って見晴らしの良い「ハイカーズ・ホステル」という宿に着いた。

旧市街の細い道

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Small_Plovdiv_street.JPG

 

 午後からは街を散策。プロヴディフは古代ローマ時代の遺跡群をはじめ、ビザンツ帝国、オスマン・トルコ支配下の建造物が数多く存在する、それぞれの時代が同居する街だ。

 ホステルを下って、ハイカラな商店が並ぶオシャレな通りを抜けてジュマヤ広場に着くと、鋭利なミナレットと赤茶色のレンガでできた外壁のジュマヤ・モスクがあらわれる。そうかと思えば、広場の中央にぽっかり開いた穴は、良く見ればローマ時代の円形競技場の跡。半分は地下に埋まっている。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Plowdiw_-_R%C3%B6misches_Stadion.jpg

 

 

 若者達は、かつて観客席だったごつい石に腰掛けてピザやソフトクリームを食べている。

僕も遅い昼食をとることにして、売店でピザを頼んだ。

日本と違い、手軽な一切れ単位で売っている。しかもその値段がべらぼうに安い。1ピース520レヴァ(約65円)! そして500mlのビールが150円!

 

 たらふく食べて飲んで観光して、そろそろ石畳がうっとうしく感じられてきた夜8時、

「あなた、中国人? 日本人?」

 というはっきりした英語を背中に受けた。

 振り返ってみたならば、あにはからんや、金髪のうら若き美少女が僕を見ているではないか。薄紫色のタンクトップと青いデニム生地のホットパンツしか身につけておらず、そこから長く伸びた手足や、気品のある首筋、均整の取れた小さな顔などはすべて小麦色に日焼けしていた。

 

その薄茶色の瞳は好奇心に燃え、僕の答えを今か今かと待っている。(かたわらに地味なメガネをかけた女友達。)

「日本人だよ」

 わあ、と少女は嬌声を上げた。

「ほら、やっぱり日本人だ! だから言ったでしょ、グループでいるのは中国人で、一人ぼっちなのが日本人だって」

彼女は張りのある口角を上げてそばのメガネっ子に言った。

  メガネっ子が笑うと、歯列矯正のブラケットがギラついてなんだか不気味だった。

「あなた、一人でさみしくないの? よかったら私たちが話し相手になってあげましょうか?」

「そうだね。そうしてくれたらうれしいよ」

「じゃあ、ちょっとそこの公園に行きましょう」

僕たちは連れだって小さな公園のベンチに腰をおろした。

右に小麦色の美少女、左にメガネの少女。もうすっかり日が暮れ、薄暗い中で街灯のオレンジ色がただごとならんムードをかもし出していた。

美少女はフレア、メガネっ子はテオドラと名乗った。

二人とも市内の高校に通う女子高生である。

他愛もない世間話をしばらくしている間、僕はフレアの方ばかり見ていた。

「この街はね、それはそれは古い歴史があって……」

彼女の薄い唇はなんとよく動くんだろう。大げさな身振り手振り、どうやら心の底からしゃべるのが好きらしい。

「ところであなた、英語の発音が本当に下手くそね」

 突然フレアは話の腰を折ってそう言った。

勝ち誇ったような笑みが浮かぶ。自身の美しさを良くわかった上で、まるで自分が宇宙の法であるかのように僕を裁いていく彼女。

「年はいくつ? 24歳? 私より8も上じゃない。アジア人って本当にいつまでも幼い顔してるのね……。それで、学校で英語を勉強しなかったの? した? 10年も? 信じられない……」

 この年頃の美少女に対して世界は全くの無力であり、僕は次なる罵倒を今か今かと待ち受けた。もっと、もっと僕をののしってくれ。

「でもフレア、アジア人にしたら上手なほうじゃない?」

 テオドラが少しトゲのあるフォローを入れた。だが僕にはありがたくもなんともなかった。会話に入ってくるんじゃないよ。

「そうかなあ?」フレヤの目は疑わしげだった。

 と、いきなり彼女は、ぐいっと僕の方に体を向けて距離を詰めてきた。長いまつ毛の一本一本までもが視認できるほど。

「ほら、カオル、『F』の発音はできる?『F』」

「フ、ファー、フレア」僕は一生懸命に前歯と下唇を駆使した。

「そうそう。私の名前はちゃんと覚えたのね。はい次、『V』」

「ヴ、ヴァ、ヴァイオレンス」

「私はヴァイオレンスじゃないわよ」

 二人の女子高生はケタケタ笑った。僕もニヤニヤした。

ここで僕は何やらおかしなことに気がついた。

気がつかないようにしていたが、現実を直視せねばならない頃合いだった。

 どうやら、さっきからフレアの柔らかい左脚が僕の右脚とぴったりくっついているようなのである。

 

 僕は短パン、彼女も短パン。

 肌と肌、細胞と細胞。

 

気を張らないと正気を失いかねぬほど。

彼女がもぞもぞと動くたび、離れないでくれと願う。

 もはや二人が何を話しているのか皆目検討がつかないが、適当にあいづちを打ってなんとかやりすごす。もう体が火照って汗も出てきて、今度はその汗の臭いがフレアにばれるんじゃないかと考えていっそう汗が出て、そうかと思うと僕を挟んで少女二人現地語で会話をするのに、フレアの頭が僕の心臓らへんまで覆いかぶさってきてドクドクドクという僕の心臓の音が聴こえてしまうんじゃないかとか、ああもうぼくはだめかもしれない。

 

 Well,とフレアが言って少女二人は立ち上がった。

「そろそろ帰ろうかな」

 僕は女子高生たちの密着地獄(天国)から解放され、ようやく冷静さを取り戻した。僕もすかさず立ち上がる。

「あ、君たち、どっか店でも行かない? もうご飯食べた?」

「あら、あなたまだなの?」とフレア。

「うん。腹が減ってさ」

「まさか、私たちを食べる気?」

 両腕で体をガードしながら狡猾そうな笑いを浮かべたフレアの姿態、僕は一生忘れないだろうと思った。

「それじゃ、楽しかったわ。ヴォンヴォヤージュ(良い旅を)、カオル」

 フレアはテオドラを連れ、一度も振り返る事なく颯爽と石畳の路地に姿を消した。

 

 

僕はしばらくそのベンチから離れられなかった。

 

 

右脚にまだフレアのぬくもりが宿っていて、歩き出したらすぐに消えてしまいそうだったから。

 

 次の日、僕は2つの美術館と3つの教会をめぐり、日が暮れると導かれるようにしてまた同じ公園にやって来た。だが、いつまで待っても子猫がじゃれついてくるばかりで、フレアは現れなかった。

 

 ネットの時代だっていうのに、どうして連絡先を交換しなかったのだろう……。

 

 僕がフレアと出会ったという事実は、プロヴディフの重厚な歴史の層へと埋没し、またひとつこの街の肥やしとなったのだった。

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