ユーラシアパンクめぐり#11 ハノイ、フエ、ニャチャン

 バスターミナルへの迎えのバイタクが来るまで、僕は宿の入り口付近でタバコをふかしていた。

狭い路地では観光客よりも地元民が目立つ。自転車の後ろに荷物を満載にして押し進むオバサンや、追いかけっこをする幼子たち。

そんな人の流れを見るともなく見ていると、宿の入り口が開き、ランちゃんが出てきた。

スラリと伸びた長い足。

僕が「ハウアーユー?」と聞くとお決まりの「ファイン、サンキュー」と笑顔で返ってくる。

そして彼女は僕の隣に座った。

 

 何をしゃべるでもなく、二人でたたずむ。恋人ってのは、確かこんな感じだったような……

 

ちょっと気詰まりを感じたので、現地人との距離を縮める僕の必殺技、「カウンティング★ナンバーズ」を発動!!

 

「モッ、ハイ、バー(1、2、3、)……、なんだっけ」

「ボン、ナム、サウ(4、5、6、)……」

 

 彼女は指を折りながらゆっくりと続けた。できの悪い子供にも愛情を持って教える、心優しい姉さん先生だった。彼女の元で学べば、言葉なんてすぐに覚えられそうだ。

近所のオヤジが通りかかり、こちらを見てニヤニヤし、指でハートマークを作った。

 

うなずく僕、ちょっと怒るランちゃん。

 

 迎えなんて来なければいい。

 

僕が彼女に日本語を教え、彼女が僕にベトナム語を教える。

おかみさんには退いてもらって、二人でこのゲストハウスを切り盛りするのだ。

口喧嘩ができるようになるころ、二人はホアンキエム湖の近くのセント・ジョセフ教会で結ばれる。ハネムーンはスーパーカブを二人乗りして海のきれいなダナンにでも行こうか……。

 

呆けている僕の目の前にそれが止まった。

海ではなくバスターミナルまで僕を連れ去る、憎い日本製の単車。宿のおかみが現れ、運転手に向かって僕を指差す。「時間がない。さあ、行くぞ」と運転手。

 僕は立ち上がり、勇気をこめて彼女に「ANH YEU EM(愛してるよ)」といった。

 

肩の辺りをひどく叩かれた。照れ隠しに僕はヘラヘラ笑いながら、バックパックを背負うと運転手の後ろにまたがる。

 

 アクセルが回され、無常な音が響く。

 今にも出発しようかというその時。

 

「カオル、待って!!」

 

彼女は急いで宿に戻り、小さな紙片を持って出てきた。

きっと彼女の想いが綴られた手紙だろう。

なんていじらしい女性なんだ、君は。

僕に駆け寄る彼女は、スローモーションの映像のよう。

「ラン!」

 僕は、もう一度、旅の終わりにここへ来るとしよう……。

 

「日本の友達に渡してください」

 

 大きく「Manh Dung Guest house」と書かれている。

 

なんのことはない、このゲストハウスの名刺だった。

縦にしても横にしても、愛のメッセージは見えてこなかった。

スーパーカブはうなりを上げて、このどうしようもない街、ハノイの夕暮れを駆け抜ける。

失恋の余韻も冷めやらぬうちに、ついに恐れていたことが起きてしまった。

下腹部にキリキリと刺すような痛み、腸の中で暴れ狂う濁流。

 

 そう、下痢である。

 

 2,3日前から軟便が続き、うすうす感づいてはいたが、まさかよりにもよって移動中に最悪の状態になろうとは。僕はものすごい形相で窓の外の暗闇を睨む。まるでそこから痛みが発生しているかのように。バスの揺れがさらに便意をかきたて、片時も油断できない。音楽を聴くことも、眠ることさえもできなかった。トイレ休憩はさっき終わったばかり。限界への挑戦が始まった。

 原因はハッキリしていた。屋台でフォーを頼むと必ずついてくる、大盛りの生野菜どもだ。もやし、レモングラス、どくだみのような香草、そしてパクチーが山と盛られていて、普通は少量だけスープに入れるのだが、根が貧乏性な僕は毎回必ず全て投入していた。時々もやしにうっすらと土が付着していることもあった。これこそワイルドな屋台の味だ! と思いスープすら一滴も残さず完食したものである。

 

 いよいよの場合を想定し、ゴワゴワのトイレットペーパーを汗に濡れた尻にセットした。

 

 結局一睡もできぬまま、空は白み、バスは停車した。

僕は一晩で3歳くらい年老いたようだった。

 

 かつてはベトナムの首都であり、王宮などの建物が残る穏やかな古都フエについた。窓から見下ろす往来は、ハノイよりもずっとのどかで、遠くに見える寺院などがとても風流だ。しかし僕は安宿のエアコンのない部屋で、うんうんうなりながらトイレとベッドを往復するだけの日々だった。

 体中の水分とともに、僕の中に残っていた未来への期待や好奇心が肛門から流れ出てしまった。僕はのたうちまわるだけの死に瀕した動物だった。異国での寂しさ、煩わしさばかりが頭に浮かぶ。

なぜ僕のそばには誰もいないのか。なぜ、みんなが僕を通り過ぎて行くんだろうか。

僕はもう二度とランちゃんにも会えないだろう。

僕の旅と同じで、人の一生には意味がない。

ならば、せめて後悔しないように生きていくしかあるまい……。

2日ほどフエに滞在し、またも夜行バスで南下する。

 左手に真っ青な海が見えてきた。

雲ひとつない大空とあいまって、ニャチャンの景色は地上の楽園のようだった。

まるでまったく別の国に来たかのような広々とした道路、あちこちに点在するリゾートホテル、等間隔に続く椰子の木。

バスを降り、適当な宿で値段交渉し、シングルルームに5ドルで泊まれることになった。都心の宿のほぼ半値である。

 

 腹具合のいい時を見計らって僕は海へ向かった。

夕方近くで、人もまばらだった。

砂浜に寝そべっている欧米人や地元の若者などがちらほらいるだけ。

砂を踏みしめているうちに、僕は我慢できなくなり、Tシャツとサンダルを脱ぎ捨ていっさんに駆け出した。

 

 ああ、海。

 

僕の体を心地よく波が揺らす。

視界にうつるのは青空と、どこまでも続く海岸線。

沖の方を見やり、少し日本のことを考える。

が、ザザーッという音に抱かれているとすべてがどうでもよくなる。

 

 緩い肛門、固い意志。

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