ユーラシアパンクめぐり#9 ハノイ2

思ったよりも早くホームシックはやって来た。

 落ち込んだとき、またはシリアスな自分を演出したいときの習性として、僕は水辺へ赴くのが常であるらしい。

僕はホアンキエム湖周辺のなるべく往来に面していないベンチに腰掛けた。

 旅に出てから二週間といったところ。僕の考えではホームシックなどは一ヶ月後かそこらにやってくるもんだと思っていたので、少々驚いた。

ふとした瞬間に日本語や日本食が恋しくなり、化粧バッチリな茶髪の女性たちを思い浮かべしばし脳内のお花畑を駆け回った後、現状とのギャップに落胆する。

 ベトナム人の名誉のために断っておくが、断じてベトナム女性が揃いも揃ってブスだというわけではない。中にはハッとするような健康的アオザイ美人もいる。ただ、多くの女性たちがそれほど外見に気を使っているようには見えない。要は、アカぬけていないのである。

 

 寂しい。

 

 自分が根付いていない土地で、しかも数日で移動を繰り返す。毎日の慣習や観念から解き放たれて自由になったはずなのに、どうしてこんなに寂しいんだろう。

 

 だけどその前に、今まで僕が、僕の成分が本当に根付いた土地なんてあっただろうか? 同じ国籍を持ち、同じような顔立ちで同じ言葉をしゃべっていただけで、僕は日本で、新潟や京都でなにかしらの一員になっていたのか? 「属す」ってどういうことだ? 本当は、全部流されていただけじゃなかったのか……?

 

「アーユーオーケイ?」

 頭上からの声に顔を上げると、早朝のお土産オバサンが扇子を持って立っていた。

「アーユーハングリー?」

 セールストークとはわかっていながらも、オバサンの憎めない面構えや恰幅のいい体を見ていると、「この人も誰かの親なんだよなあ」なんて思ってしまったものだから、僕は警戒を解き、少し話し相手になってもらうことにした。

「いや、大丈夫。ちょっと疲れてしまったんだよ。ホームシックなんだろうね」

「韓国? 中国?」

「日本です」

「ああ、日本はいい国だねえ」

「そうなんだよ。でも僕は、日本の良さを知らなかったんだ。窮屈で変な国だと思っていた」

「何バカなこといってんの。中国とは違うんだよ。日本には何だってあるじゃないか。日本人はみんな金持ちだし。そうそう、私の知り合いに佐藤さんていうのがいるんだけど、知ってる?」

「『佐藤さん』はいっぱいいるからねえ……」

「彼だって、一人でベトナムに来て、はじめは苦労したけど、がんばって今は自分の店を持っているんだよ」

「すごい『佐藤さん』だね」

「あんただって日本人なら、なんだってできるんだよ」

「そうかなあ……」

 オバサンは肩に提げたカバンを開いて、ポストカードの束を取り出した。

「だからこの土産を買うのだって、簡単なことさ」

 いたずらっぽい微笑み。思わず僕もニヤリとしてしまう。

「いや、それはいらない」

「じゃあこの扇子。これはとても質が良くて……」

「ごめん、貧乏なんだ」

 朝と同じ光景を繰り広げた後、彼女は挨拶もなしに次の客めがけて去って行った。

 

 

 数分と経たず、今度は帽子を被ったオヤジが近づいてきた。彼の知り合いがベトナム料理と酒を安く提供するレストランをやっているので一緒に行かないか、という。

「オレがおごってやるから……」

 甘い。甘いぞオヤジ!

 

もう少し相手の様子を伺って雑談を挟まなければ誰もついていかないぞ。

僕が断ると食い下がりもせずに退散するオヤジ。まだまだだな。

 

 先ほどまで僕は頭の中で重大な哲学的論考や、キルケゴール的「あれか、これか」を繰り広げていたように感じたが、一切がもうどうでも良くなっていた。

 僕は「ノー」といえる男になった。

 とりあえず今はそれだけでいい。

 

 どんな相手でも、誰かと話すとストレスは軽減されるものだ。僕はまた今日もひとりでフォーを啜り、しかし宿に帰ったら欧米人たちとちゃんと話してみようと決心し、歩き出した。

 その時、三度目の声かけ事案が発生した。

「ハーイ、日本人ですか?」

 まだ大人になりきっていない青年二人が流暢な英語で話しかけてきた。一人は目力が強い短髪の好男子、もう一方は柔和な顔立ちに茶髪のヤサ男だった。僕を一目で日本人と当てたのは彼らが初である。

「そうだよ」

「やっぱりそうなんだ! 日本ってスゴイよね! トヨタ、マツダ、ホンダ、ソニー!」

 メヂカラ君のほうが英語は上手いようだ。「僕たち、いろんな人と話するのが好きなんだ。ちょっとしゃべろうよ!」

 僕はなし崩し的にさっきのベンチに座った。目前に湖、両手にベトコン!

 メヂカラ君はグエン、ヤサ男君はチンと名乗った。二人ともハノイ工科大学に通う学生なのだった。

 彼らは次々にベトナムの現状や日本との関係について持論を展開した。

 グエンによれば、東アジアの中では日本が一番人気があるのだという。それは電化製品やバイクだけでなく、日本政府がベトナムに多くの資金援助やインフラ整備などを行っているからであり、さらには日本人旅行者のマナーは中国、韓国に比べたら大変紳士的だ、というのである。

 僕は、彼が「中国」や「中国人」というとき、表情に少し敵意が現れるのに気づいた。

「中国のことはどう思ってるの?」

「中国か……。あの国は乱暴だよ。力で人々を支配してるからね。共産党政府は貪欲に周辺の領土を狙っているじゃないか。日本はもちろん、ベトナムやラオスの間にも領土問題があるんだよ。それに中国人っていうのは、基本的に僕らを見下していて、無教養な貧乏人だと思っているんだ。中国人旅行者の態度なんてひどいものだよ」

 溢れる憎悪を前に、僕は何といっていいのかわからなかった。昆明行き長距離列車内の面々の人懐っこい笑顔が浮かび、かろうじて、「まあ、どこの国でもそうだけど、中にはいい人もいるんだよ」とお茶を濁しただけだった。

「まあそれはそうだけどね……」

「ねえ、晩御飯まだでしょ? 僕らがハノイで一番おいしいフォーの店を紹介するよ!」ずっと僕たちの話を聞いていたチンが頃合いを見計らってそう提案した。

「行こう!」グエンは即座に立ち上がった。

 僕はこんなに人のよさそうな二人組でも、この修羅の国ベトナムで、知らない人についていくなんて自殺行為をする気はさらさらなかった。

 被害に遭いたくない。そして、この優しい二人のことを犯罪者め、と恨みたくない。「もう宿に帰るわ。ありがとう」

 しかし、いくら丁重に断っても、駄々をこねるように僕をつれていこうとする彼ら。「なんで? 行こうよ! 地元民しか行かない店だよ」

 人の親切と詐欺行為とを見分ける方法があればいいのに……。

 上海の詐欺師二人とは何かが違う。今にして思うからかもしれないが、彼女たちはもっとテキパキと目的地につれて行こうとしたような気がする。グエン、チンよ、君たちを信じてもいいのかい……。

 場所はすぐ近くらしい。徒歩で行ける距離だ。これならまあ、何かあっても安心だろう。

「わかったよ。うまいフォー食べさせてくれよ」

 そうして僕たちは襲い来る無限バイクをかわしてかわして、目的の店を目指した。そこは道路にまで背の低いイスやテーブルが並ぶ超人気店だった。若者が多い。妙齢の女性もちらほら。英語でしゃべる僕たちに、周りの人々がチラチラ視線を投げかけてくる。

 ビーフ、オア、チキン?

 僕は鶏肉入りを頼んだ。

 料理が来る間も、僕たちは飽きもせずにお互いの国について話しあった。驚いたのは、日本では失礼に当たる質問も彼らは平気でしてくるという点。

「日本で介護職だと、一ヶ月どのくらいもらえるの?」「日本から上海へのチケットはいくら?」「24歳なのに結婚しないの?」

 その態度は決して図々しいというわけではなく、あけっぴろげな、まっすぐな好奇心が現れているような感じだった。

 たっぷりの野菜、そしてパクチーが乗る、熱々の丼が運ばれてきた。二人を見習って、ライムを手ですりつぶして入れる。さらにニンニクと唐辛子入りの酢をスプーンで掬う。入れて、また掬う。また……。

「カオル、そんなに入れるの?」グエンは大きな目をさらに見開いた。

 僕は余裕の笑みを見せつける。中国大陸を通過してきたんだ。これくらい入れないでどうするってんだい!

 

 滝のような汗で寂しさが洗い流された、雑然たるハノイの夜だった。

 

 

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