ユーラシアパンクめぐり#10 ハノイ3
深夜僕が寝ているときに、どやどやと酔っ払い白人たちが部屋にもどってくるのに嫌気がさし、翌日僕は宿を代えることにした。
別れ際に、前日少し言葉を交わしたカナダ人と鉢合わせた。せっかくだからと宿の広間で一緒にベトナムコーヒーを飲むことにした。
練乳がたっぷり入って甘ったるいが、このジトジトと暑い気候に必要な糖分をしっかり補給できる。……らしい。
彼はケベック州出身の、フランス語なまりの英語で
「どうして日本はあんな無謀な戦争をしたんだ」
と唐突にたずねてきた。
朝っぱらから脳みそを酷使しつつ、
不況の中、日本は欧米諸国のように植民地が欲しくなった。中国を侵略したが激しい抵抗に遭い、戦闘は泥沼化。ドイツ、イタリアと仲間になったことで色々な国から非難を受けて、アメリカから資源の輸入ができなくなり、開戦した
というようなことを説明した。
彼は根気強く、時々僕に助け舟を出しながら真摯に聞いていた。
「そうか、アメリカにケンカを売るなんて日本はどれほど世間知らずだったのかと思っていたけど、切迫した状況だったんだな」
「まあ、あの時の日本はウンコだったよ」
その後も彼の好奇心はとどまらず、彼が普通に学んできた歴史や文化とは異なる側面に接するたび、興味深そうに質問を続けるのだった。
一時間ほどして、ようやく彼は僕を解放してくれた。
僕は脳内の今まで使ったことのない回路を酷使したようで、頭がボーッとして、眼球の奥に濃厚な疲労を感じた。もう一杯コーヒーをもらおうかと思ったが、宿の従業員が忙しそうだったので、暇を告げ荷物を背負い外に出た。
パソコンで調べた評判の良い安宿を探してさまよい歩くが、めぼしい宿はつぶれたのか移転したのか、はたまた最初からなかったかのように見当たらない。僕と同じように地図を片手に立ち止まっている旅行者を何組も見かけた。
小路にさえズンズン入り込んでくるバイクに気をつかい、クラクションをビッと短く鳴らしてこちらの注意をひきつつ近寄ってくるタクシー運転手たちを振り切って進まねばならないので、どんどん僕の体力は削られていった。
彼らはまるで追い払っても追い払っても寄ってくるハエどものようだった。強くあらねば。
(バイタクのおっさんども)
ベトナム商人の狡猾さは重々承知しているので、ボッタクリ被害などに遭わないようなるべく評判の良い宿に行こうとしたのだったが、僕のもくろみは混沌の街に飲み込まれてしまう。
汗まみれになりながら手当たり次第宿屋に突入し、値段を聞いてまわった。
5軒目にして、天使に出会った。
「シンチャオ(こんにちは)」
と勢い込んで入ったはいいものの、僕はしばし呆然として次の言葉が出てこない。
彼女の切れ長で神秘的なその双眸は、僕の今日の苦労を、いや今までの孤独な旅を容易に見透かす。すべてを承知した上であくまでもやさしく見守ってくれているようだった。
彼女は笑顔を浮かべ、控えめな、けれども耳に心地よく響く声で話し始めた。
「ハロー。宿を探してるんでしょ? 今ちょうど部屋が空いたから案内できるわよ」
「あっ……はい、うん。えーと、お願いします」
「あなた、どこから来たの?」
「日本から」
「そう。それはいいわね」
「あの、一泊いくらかな?」
「えっと……」
彼女は机の引き出しをゴソゴソやり出した。ようやく彼女の瞳から解放された僕は、改めて目の前の、女性の形をした清らかさそのものを仔細に眺めた。
みずみずしく長い黒髪は、ざっくばらんに後ろで束ねられている。
下を向いたことでさらりと下がるサイドの髪を、彼女はそっと耳にかけた。
彼女は次の引き出しを開けつつ、ベトナム語で何かつぶやいている。
その破裂音、声調が、今まで僕が街や掃きだめで聞いてきた言語と同じものだとは到底信じられないくらいに蠱惑的である。
探し物は見つからないようだ。彼女はちょっと照れたようにいった。
「私はここで働き始めたばかりで良くわからないの。ごめんね。オーナーを呼んでくるわ」
奥の部屋から彼女に連れられて出てきたのは、商魂たくましそうな小太りのオバちゃん。
結局そこらの宿と変わらない値段だったが、そんなことはどうでもよく、もう僕がここに泊まることは決まりきったことだ。一応形だけの値下げ交渉を試してみると意外や意外、簡単に1ドル下がってシングルルーム一泊9ドルになった。
先ほどの彼女がうれしそうな顔で僕の隣に座る。
少し肩が触れ合った。彼女は僕のパスポートを手に、宿の台帳に記入する。
「ハヤタ……カオル……」
僕は陶然としつつ彼女が発音する自分の名前を聞いた。カオル。なんて素晴らしい名前なんだろう。
彼女は「ラン」と名乗った。全てが完璧だった。彼女にとってこれ以上ふさわしい名前があるとは思えなかった。
ランちゃん。普通の女の子、ランちゃん。
「カオル、何泊するの?」
「うーん、2泊かな」
「そっか……」
少し残念そうな顔。営業だとはわかっていながらも、僕は完全に心を射抜かれていた。
ランちゃんとともに部屋へ向かう途中、向かいの散髪屋の青年がバイクにまたがったまま彼女に何やら声をかけて来た。二人の間で二言三言会話が続く。間抜けヅラの僕はすでに嫉妬に身を焦がされていた。
「はい、この部屋です。カギはこうやって開けて……、電気はここ、シャワーが……」
僕は荷物を投げ出し、ベッドに腰掛けた。先ほどの小僧のことが気になる。
「さっきの人ってランちゃんのボーイフレンド?」
「まさか! ただの友達よ」
「へえ。じゃあ彼氏いるの?」
「いません!」
それじゃあ何かあったら呼んでね、といい残し、彼女は階下へ降りて行った。
ニヤニヤが止まらない。
彼女、恋人、イナイ。俺、旅人。
メシを食べに外出、部屋に戻ったとたん、外はいきなりの激しい驟雨に見舞われた。雨粒が跳ね返り、稲光が踊る。
ノックの音がして、ランちゃんが入ってきた。
僕は大いに混乱した。ちと性急すぎやしないか? しかし、据え膳食わぬは男の恥だ。ええい、激しい雨が、僕を駆り立てる。
「雨が降ってきたから、窓閉めなきゃ!」
僕のくだらない逡巡に気づくことなく、彼女はテキパキと窓を閉めて出て行った。
去り際の「バイバーイ」というキュートなしぐさが僕の脳内でしばらくリピート再生された。
この2日間、グエンと再会し、彼の大学を訪れたり、ハノイのバーに繰り出してハードロックバンドを見つけたりしたが、ランちゃんに出会った時以上のトキメキは感じられなかった。そして時は無情に流れ行く。