波音採取

どうしても海の音が必要だった。

 

長く執拗なアウトロの音量を徐々に絞り、やがてまったく無音になる。次の瞬間、うっすらと打ち寄せる波の音。砂に染みこむ。そしてまた海がうねる。だが同じ波は二度と来ない。再び無音へのフェイド・アウト。ありがちな演出ではあるが、無限または有限を表現するにはこれしかないと思った。

 

 

私たちのような音楽(パンク、ロック、Whatever)には、美しい浜辺でなくていい。厳しく荒れる岩礁でもない。そう、地を這う労働者たちにとってのわずかななぐさめとなる海、須磨海岸

 

よく晴れた秋の午後、私は阪急電車に乗り込んだ。窓を背にしてロングシートの端に座る。車両内は立っている人もいるくらいの混みようだか、私の周りには誰も座っていない。不思議に思ったのもつかの間、ちょうど対面にある窓の際でブンブン体当たりをかます蜂。おそらくミツバチだろう。次の駅で乗ってきたおじさんが空席に座ろうとするが、体の動きを止め、凝視、そして別車両へ。また次の駅、白いキャップをかぶったおじいさんが何の疑問もなしに、まさに蜂の真下に座った。少しの逡巡の後、私は声をかけることにした。「ハチ、いますよ」おじいさんは「ああ、ありがとう」と言って体の向きを変え、(難儀そうだ)少し離れた座席に座った。感謝された。いい幸先だ。

 

三宮で降りる。神戸には一年だけ住んでいた。海が近かったからだ。

 

JRに乗り換え、須磨駅へ。駅舎の目の前がもう海だ。

 

平日の午後4時、人影はまばら。仲睦まじく景色を眺めるカップル、犬の散歩をする老人、砂浜までベビーカーでぐんぐん進む母親、海を前に畏怖を浮かべる子ども。

 

さっそくJに借りた高音質レコーダーを片手に、あちらこちらと録音してみる。しかしここは神戸、波音だけでなく電車の音や車の音が入ってしまう。「いやいや、それもお前の好きな『ありのまま』だろ?」うるせえ、作品に恣意性が入って何が悪い。ドキュメンタリー番組が全部真実だとでも思っているのか?

 

ちょっと孤独が過ぎるな、おれは、と思いつつも波のみぎわに座り、砂浜にレコーダーを置く。波と同じ高さで録音すると、細かい波の表情が入り込んでいる。それもいいが、もう少し俯瞰的に海を録ってみよう。

など試行錯誤してる間に、今日もまた夕空。何かを感じることができる自分。ため息。

 

満足いくものが録音できた帰り道だった。自宅付近、見慣れた日常の風景の中で、首筋がゾクッとするような不思議な感覚にとらわれた。

そうすると、今まで見ていたもの、密集するアパート、巨大な団地、ひび割れた道路、鳩の群れ、公園の遊具に浮いた錆、などがまるでちがったものになっている。はた目にはわからないが、確実にちがう。どこかで現実の被膜をやぶって異界に入り込んでしまった。認識の問題? 「また入っちゃったか」とか言いながらも、私は少しワクワクしている。なにも見慣れてなんかいなかったのだ。

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