ユーラシアパンクめぐり#30 ポカラ→トルコへ
老人はそれまで、JICA(国際協力機構)の一員として、十数年もの間ネパールで農業を教えてきた。
任期が終わり、無事の帰国を祝う祝賀会でのこと。
老人の苦労をねぎらう、惜しみない拍手が場内に鳴り響いた。
これからは家族と共に余生を送るものだ、と彼らの誰もが思っていた。
しかし、老人は威厳に満ちた声でこう告げた。
今度は一個人として、ヒマラヤ禁断の秘境と呼ばれたムスタンへ行く、と。
ムスタンはネパール中西部、標高約3000メートルに位置するところで、年間を通して降雨量が少なく植物もまばらにしか生えない、不毛の大地である。
今までネパール政府やアメリカの団体が幾度となく植林を試みたが、いずれも失敗に終わっていた。
老人は「ムスタンの子供たちにお腹いっぱい白い米を食べさせてやりたい」と語った。
その決意は固く、反対する家族をなんとか説得すると、先祖伝来の土地や家屋まで売り払って活動資金の足しにした。そして再び、老人は日本を、故郷の新潟県加茂市を後にした。
老人の名は、近藤亨。その時すでに70歳だった。
~プロジェクト○ックス~
https://en.wikipedia.org/wiki/Upper_Mustang#/media/File:Tangbe,_Upper_Mustang.jpg
(アッパームスタンの集落)
一方、新潟県加茂市が生んだ粗大ゴミこと僕は、またもや自ら進んで日本人宿に来たにもかかわらず、「日本社会はつまんねえな」とか思っていた。宿にあったシャーマンキングを読みながら。
2013.07.25-30
カトマンズからツーリストバスで7時間。
悪路のその先にネパール第2の都市ポカラはある。
ポカラは穏やかなペワ湖に面した街で、湖畔には静けさが漂い、天気が良ければヒマラヤを眺めることができる景勝地だ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%AB%E3%83%A9#/media/File:Pokhara_from_peace_stupa.jpg
なのに同宿のヤツらときたら、宿のヌシを気取る長期滞在のおっさんにへーこらしてばかりいる。こんな桃源郷に悪しき列島根性を持ち出すんじゃないよ。やだやだ。
おっさんを中心にして、朝から晩まで大麻にふける彼ら。
中には女の子もいた(油断してるからパンツ見えた。ありがとう)。
そしてもっとヤバいものを吸わされてゲロまみれになる青年Y。
後日Yは、あの人に従うのがつらい、と僕にもらした。
だったらヤメれば?
しかし、おっさんには世話になっているとかで、なかなか悪の誘いを断れないのだという。気持ちはわからなくもない……。
でもさあ、僕たちは責任とか抑圧から逃れて、自由か何かを求めてこんな山の中にいるんじゃないのか?
嫌な気持ちになってまで一箇所にとどまることは、歯を食いしばって労働に耐え、ようやくいくばくかの旅費を貯めた自分への最大の冒涜だろう。
かくいう僕も、年上のYに「ツライっすね~」とか言ってご機嫌を伺ったりしていた。悪い空気はすぐに広がってしまうのだ。
もうここで4日も過ごした。その間ヒマラヤは全く見えなかった。
僕は漫画を読み終わって、文庫本に手を出した。岡本太郎著、「自分の中に毒を持て」。
夢中で読み終わるころには、くすぶっていた脳が一気に覚醒した。
人にどう思われるかばかり考えていてはいけない。
自分の思った通りに進め!
人生はバクハツだ!!!!!
さあ、僕も逃げ出そう、旅を進めよう。
パンクの存在が確認できないインドや中東をすっとばし、一気にトルコへ!
決意も新たに、カトマンズ発UAEシャールジャ経由、イスタンブール行きの飛行機を待っていると、ドデカいバックパックを背負い、他にも大小さまざまな荷物を持ったヒッピー風の日本人二人組に出会った。
長髪のケンと、ニット帽をかぶったシュン。
二人とも185センチはあろうかという長身だ。見たところ30歳前後といったところだろう。
話を聞くと、彼らも僕と同じ飛行機に乗るとのこと。
シュンは小脇に抱えていたギターケースをドスンと降ろした。
「ギター持って旅してるんですか? いいですね」
「まあね。でもギターだけじゃないよ。こっちはジャンベで、ケンが抱えてるのがシンバルとタンクドラム」
「重そうですね……」
「うん。バックパックにはテントとかも入ってるし」
彼ら二人はオーストラリアでワーキングホリデーをしていた時に知り合った。時給の良いバイトで金を貯めた後、世界各地で路上演奏をしながら旅をしている。
「ネパールではどうでした?」僕はクールなケンにたずねた。
「うーん、あんまりうまくいかなかったな。こう言っちゃなんだけど、やっぱ先進国じゃないとダメなんかな」
「そうなんですか。まあ、トルコからは大丈夫ですよ、きっと」
「そうだね。実はトルコでもう一人と合流するんだ。これはそいつの楽器」
そういってケンは厚みのある円盤型のケースを持ち上げた。その中にはタンクドラムという楽器が入っている。叩く場所によって音階が変わるいわば木琴のような楽器で、空洞になっている胴体に反響する音色がとても神秘的なんだ、とケンが教えてくれた。
(タンクドラム演奏)
彼らの話を聞いていると、鴨川の三条大橋の下で夜な夜なセッションに明け暮れたあの夏の日々を思い出してしまう。
あそこにいた連中も、ケンとシュンみたいに自由で根無し草なヤツらばっかりだった。
今思えば、鴨川が僕を旅に駆り立てたと言えなくもない。
そうこうしている間に、搭乗開始時刻となった。
入念な荷物チェックでライターや飲みかけのペットボトルを没収され、また僕は身軽になった。
さようなら、聖なるヒマラヤ。
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近藤は冷酷なまでに強大な自然相手に戦い続け、4年目にして、ようやく黄金の稲穂を実らせることができた。
標高1000メートルが限界と言われていた稲作の常識を根本から覆した。
その秘訣は、田んぼを覆うビニールシート。保温効果は絶大だった。
さらに毎日吹きつける強風でシートが飛ばされないよう、竹を使った固定方法を編み出した。
ひたむきな近藤の姿勢と、それに感化された村人たちの協力があってはじめて成し遂げられた偉業だった。
「かわいそうだから、あまったもんを与えてやろう、というのは真の国際協力ではない。命を投げ捨てて取り組み、相手の心を動かしてはじめて価値がある」
齢90を越える今もなお、近藤はムスタンで精力的に活動している。
僕が彼の講演を聞いたのは小学校低学年のころ。体育館に座りながら僕は、なんか神様みたいな白ヒゲのじーさんだなあ、とぼんやりしていた。早く帰ってスーパーロボット大戦してえなあ、とか思っていた。
時を経ること十数年、彼の名はムスタンだけでなく、僕が何気なく話しかけたポカラのおっさんにまで知られていた。
ちなみに、近藤は日本から受け取ったカネで贅沢をし、地元民に還元していないというウワサもある。ペテン師か天使か。