ユーラシアパンクめぐり#16 ウドン
良い思い出ができそうにもないプノンペンをさっさと旅立つため、僕はバスターミナルで西へ向かうバスを探す。鉄道はこの国にはまだない。
宿でもらった日本語版広域地図を広げて眺め、アンコールワット観光の拠点の町、シェムリアップまで一気に行くルートを確認する。そして「ウドン」という地名を発見してしまった。
潔い3文字が僕の網膜に焼きつく。
無類のうどん好きとして知られる僕が行かないなんてことがあろうか。
よし、ウドンへ行こう。
運転手たちに「ウドン!」と高らかに宣言すると、親切な真っ黒オヤジが、コンポンチュナン行きに乗り途中で降りろ、と教えてくれた。売店でツナ入りフランスパンを買い、僕は意気揚々とそのバスに乗り込んだ。
ガタガタの5号線を進み、プノンペンからわずか一時間程度で運転手の「ウドン!」宣言があった。僕は礼をいい、バス停らしき雰囲気がまったくない、土ぼこりにまみれた道路の上に降り立った。
辺りは草木の茂る、正真正銘の田舎町。高い建物のまったくない中、町の後方には丘があり、その頂に白く鋭い仏塔(ストゥーパ)が4本聳えている。こりゃすごい。
by Stefan Fussan, https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Udong_0001.jpg
そのまま国道を歩くが、店といえばちょっとした個人商店や食堂がポツリポツリとあるだけ。タバコ屋のばあさんは頬杖をついたまま寝ている。
こののどかさ、この穏やかさ。
これこそ僕の求めていたものなのか。確かに、ここなら旅行者をだます悪いやつなんていないのではないか。
客引きといううるさいハエどもも、まったくいないとなると寂しいものである。
しばらく歩くとバイクの上で寝そべっているオヤジを見つけたので、すかさず僕は「ホテル! スリープ!」といって寝るしぐさをした。オヤジはめんどくさそうに体勢を立て直して僕の座るスペースを作った。そして二人ともノーヘルのままアジアの風にあおられ、町で一番の安宿に到着した。
ここ以外に宿などありそうにもないので、しぶしぶ6ドルのシングルルームに決めた。
天井が高く開放感のある部屋。ベッドの上にコンドームが置いてあった。アフリカのとある地域ではまだまだ避妊具が普及しておらず、望まれない妊娠、性病やエイズへの罹患が社会的ビッグイシューになっていることに比べ、カンボジアのこんな片田舎へもちゃんとコンドームは広まり、どうりで先日とあるレストランで地元のオヤジどもが僕に「サガミ! オリジナル! グッド! グッド!」といってくるわけである。
荷物を投げ、早速僕は丘を目指した。
テクテク歩き、気がつけば半裸の子供たちが好奇心を抑えきれず僕の後からついてきていた。みな僕の一挙手一投足に注目している。たまらず僕が「ハロー」というと、笑顔で何やら叫びだし、クモの子を散らすように逃げる。
頂上へ続く石段の周りには簡素なテントが並んでおり、なにやらメシの良い香りがする。店番のおばちゃんに「メシくれ」というと、掘っ立て小屋の奥に通されて少し待て、といわれた。
彼らのいう「少し」がどのくらいなのか、ようやく僕にもわかりかけてきた。
そう、せっかちな生活は捨てたのだ。
先ほどの子供たちを手招きで呼び寄せ、2、30分ほどじゃれあっていると、鍋にいっぱいの白米と、川魚の丸焼きがテーブルに並べられた。さっそくナンプラーや唐辛子などをふりかけ、小骨もろとも白身にかじりつく。結構うまい。白米の炊き加減もパサパサしすぎず丁度良い。
子供たちは別にメシや金をねだるでもなく、そんな僕の様子を眺めてニヤニヤしている。なんて気持ちのいいガキどもだ。
腹がはち切れそうなほど食べて4ドルだった。すでに子供たちは飽きてどこかへ行ってしまったので、僕は静けさに包まれながら、ひとり真っ白な石段を登り始めた。
途中途中にも、いくつか立派なストゥーパが建っていて、ついついその造形に見入ってしまう。そんな時、背後から登って来た十代後半と思しき二人の若者が僕にしゃべりかけてきた。
「このストゥーパは、カンボジアの歴代の王が建てたもので……」
彼らは僕の後から勝手にいろいろと解説を始めた。
すぐに有料押しかけガイドだとわかったが、よどみなく一生懸命英語をしゃべる彼らを健気に思ってしまい、しばし付き合うことにした。
「英語上手いね。どこで勉強したの?」
「学校と、あとは家で勉強しました。ところで、このウドンという町はカンボジア王国の首都だったこともあり……」
僕は普通の会話がしたかったのだが、仕事熱心な彼らはかわるがわる町の歴史や仏塔の建てられた背景などを話すのに余念がないようだった。
700段以上を登りきり、僕は乱れた息を整えながら地上を眺めた。
見渡す限りの平原や木々に心が澄み渡っていくようである。また、巨大な4本の仏塔はどれも精巧に造りこまれていて、見る者に深い感慨を呼び起こす。
「この真っ白なストゥーパは、内戦が終わった後の2002年に建てられたもので……」
しかしこう矢継ぎ早にまくしたてられたら情緒も何もあったものではない。
さらに彼らは、路傍で線香やお供え物を売る老婆のところに来るとしきりに何か買うように諭してくる。もちろん、買うわけがない。
とても煩わしい。あの時、慈悲心なんて見せるんじゃなかった。というより、また僕は断れずに、状況に流されただけだったんじゃないのか?
いいかげんこの軽佻浮薄、意志薄弱な性格をなんとかしなければならん。
ひとしきり観光が終わり平地に戻ると、予期していたとおり、彼らはガイド料を請求してきた。
これ以上ない沈痛な面持ちで言葉を吐き出す少年。いわく、
「僕たちは今通っている学校以外にも、もっと良い教育を受けて英語を上達させたいんだ。そして将来は立派なガイドになりたい。だから、そのためのお金をくれないか」
「学校以外の教育にいくら必要なの?」
「30ドルほど」
「……」
冗談じゃない。
こんな貧乏旅行者に何をせがんでいるのやら。巧妙な嘘をついたつもりだろうが、いくらなんでも高すぎる。しかし、ガイドを断らなかったのは僕である。おかげでこっちも交流ができたわけだ。
僕はポケットをまさぐり、堂々とボロボロの1ドル札3枚を渡した。結構太っ腹すぎたかな、と悔やまないでもなかったが。
小僧たちは金持ちであるはずの日本人がくれた、くしゃくしゃの紙幣を眺め、しばし呆然としていた。これは好機、僕はそそくさとその場を後にした。
やはり、フレンドリーに話しかけてくる奴は基本的には金だけが目当てなのである。
かといって、物売り、客引き、勝手にガイドなどなど、彼らにも生活がある。生きていくために自分の口先やずるい手段を使うのなんて、規模は違えど万国共通のあたりまえなことである。
そして多くの場合、周りの先進国や大国に翻弄され、貨幣経済に依存せざるをえなくなった結果がそうなのだ。そんな中、平和ボケした先進国のモラトリアム野郎が少しくらい多く金をとられたからって自業自得、彼らからすれば「いい気味だ」ってなもんだろう。
旅人はストレンジャーである。人々の暮らしに肉薄しようとする旅の仕方ならば、「お邪魔している」という気持ちを常に持ち、尊敬の念を忘れてはいけない。パサパサの米に感謝、トイレがあることに感謝である。
だから現地人と同じ値段設定に固執してもまかり通らないのが普通なのだ。完全な詐欺行為には断固とした態度で立ち向かうべきだが、ちょっとした小銭などはチップとして気前良く払えばいい。
宿の今晩の客は僕だけのようだ。犬のほえる声と虫たちの大合唱を聴きながら、部屋のテレビをいじる。どうにかしてペイチャンネルのようなものが映った。小麦色のアジア美人たちが艶かしい肢体でこちらに微笑む。エロは国境を越えるのだ。しかし、無料で見れる時間が決まっているのも全世界共通。すぐに美女たちは僕を残して消えてしまった。
こんな夜は酒を飲んで酔ってしまうのが一番。
僕は母屋へ行き、宿のおかみさんと共にカンボジアビールのアンカーで乾杯をした。グラスに氷を入れるやり方にも慣れたものだ。お互い言葉も通じない間柄だが、東南アジアの激しい驟雨のおかげで、何もしゃべる必要はなかった。