ユーラシアパンクめぐり#15 プノンペン2

 翌日、僕はチェンエクと呼ばれるポルポト時代の強制収容所を見学することにした。

プノンペン市の郊外にあるため、トゥクトゥクを一日チャーターしなければならない。

砂埃を巻き上げてチンタラ進み、1時間ほどで広い敷地が見えた。

   うだるような快晴の下、いたるところに当時の凄惨な写真や殺された人々が着ていた衣服、メガネ、ヘアピンなど、さらには歯や骨などが展示されている。

 彼らは何も知らずにトラックで連れて来られ、同胞の手によって次々と殺された。

時には連れて来られてすぐに、名簿を作るのが面倒だからと、地面を踏むことなく処刑された人もいた。この地だけで2万人以上が収容され、生存者はたったの6名といわれている。

 

 少し歩くと、鮮やかに赤い巨木が見えてくる。

遠くからだと、人の生き血が木肌にベットリこびりつき、未だに消えていないように見える。

 

近くで見れば、哀悼の意を表す赤や黄色のミサンガが大量に結わえつけられているのだとわかる。

 

 まだ若い兵士たちは、この木の幹や枝に胎児を打ちつけて殺した。

 時に笑い、時に無表情で。

 

 僕の前を歩く白人女性は嗚咽をもらしている。

 敷地内が穴ぼこだらけなのは、まだまだ遺骨の収集が終わっていないからだという。発見された骨のうち、頭蓋骨は敷地の中央にある慰霊塔に保管されている。

 僕は靴を脱ぎ、中へ入った。

天井まで続くガラスケースに、こちらを見据える頭蓋、頭蓋、頭蓋。

          http://www.ourglobaltrek.com/killing-fields-cambodias-dark-history/

 

呆然と立ちすくむ。体が自然に身震いを起こした。

しかしそれは恐怖や悲惨さからではなく、死者からの荘厳で静謐な千のまなざしを一息に受け止めきれなかっただけのこと。

 たぶん僕は、全ての死者によって生かされているのだ、という気がした。

 ゆっくりと冥福を祈る。

 この瞬間の、胸がすりおろされていくような気持ちを忘れないようにしよう。

 さて、プノンペン市内で唯一ロックを流すバー、SHARKYでは夜な夜なバンドが出演し、酔っ払いたちで大いに盛り上がっているらしい。

チラシを見る限り、明らかにパンクイベントらしきものが行われるはずだった。

 夜9時ごろ、店は欧米人たちでにぎわっていた。友達同士の旅行者、カップル、そして駐在員などだろう。中には商売女と見られる若いカンボジア美人を連れた色ボケオヤジもいる。カンボジア人の男といえば、白人たちの御用聞きや、専用ガイドばかりである。

 案の定、出演バンドも6組中5組は白人バンドだった。Sham69やSex Pistols、Nirvanaのカバーばかりの2組は論外として、可もなく不可もないオリジナル曲を聴かされ、カンボジア地下音楽を求めていた僕はげんなりしていた。

 

本当にこいつら他人の国に植民するのがうまい。

 

 旅で出会った誰かがいっていたが、欧米人旅行者はどこへ行くにも自分たちの流儀を押し通し、日本人はどこまでも現地の生活に入り込もうとするそうである。

 

 ご存知のように僕は後者のスタンスに近いが、そのどちらにでも良い点があり、悪い点がある。大事なのはどの程度までを良しとするかだと思う。僕がいくら現地の人と同じ生活をしても、経済的なバックグラウンドが彼らとはまるで異なるわけで、現地人にしてみればそれはどこまでも酔狂な金持ちによる「フリ」にしかならない。

 夜も更け、収穫なしのままそろそろ帰ろうという段になって、ようやくカンボジア人ボーカルを擁するバンドが現れた。その名は”JAWORSKI 7“。

 動画はこちら↓

https://www.youtube.com/watch?v=ec_vaPiETHQ&index=7&list=PLzbtixIPhfnjzgSCZ1InBHZAP01oKVykS

 

キーボードを用いたエレクトロニックなサウンドが鳴り響く。恰幅の良いボーカルがそのリズムに巨体を揺らしながら歌いだした。よく通る声だった。しかしそれはクメール語であるはずもなく、耳障りの良い英語だった。まあ、オリジナルの曲があるというだけでも、カンボジアのポップス界にとっては革新的なことだろう。

 

小気味の良いメロディーがちょっと僕を切なくし、帰り道、街灯もない真っ暗闇の中でついついサビを口ずさんでしまった。

 

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