ユーラシアパンクめぐり#12 サイゴン1
まるで普通の観光客に成り下がったかのようなベトナム縦断の旅。
フタを開けて見れば、ハノイ郊外のハロン湾にも少数民族の里サパにも行かず、ただただ腹痛をこらえて南下するだけの下痢難民だった。
しかしながら、ベトナム最大の経済都市、ホーチミン・シティ(サイゴン)に着くころには腸内の細菌にも免疫がついてきた。歩みは軽く、心は晴れやか。
(引用:http://harutarohcmc.seesaa.net/article/398862895.html)
バイクの交通量に再び驚き、人の多さに活気を感じる。道端でフランスパンを買い食いする間にも、おなじみとなったしつこいバイタク。誘いを断り続けていると、「アジノモト!」との声が飛んできた。よくわからん必死さが伝わってきたが、僕は歩いた。
旅行者が多く集まるエリア、ファングーラオ通り。
安宿、ツアー会社、食堂などの看板がケバケバしい。そこらじゅうで欧米人や東アジア人のグループが飲んだくれている。角を曲がり細い路地に入ると、これまた大仰なタトゥーショップや土産物屋。
お膳立てされた「バックパッカーの聖地」は、僕のようなナイトクラブ嫌いにはうるさいだけの街だった。
一泊5ドルの4人用ドミトリーに決め、しばしネットサーフィンでもしようかというところに、同じ宿の客であるベトナム人二人(僕とは別室)が僕に話しかけてきて、なし崩し的に飲みに行くことになった。
黒縁眼鏡が理知的なトニー、柔和な物腰のドゥン。
彼らはハノイの同じ会社で働いており、休暇でサイゴンに来たのだという。
ベトナムビールの333(バーバー)を氷の入ったグラスに注ぐ。
暑い東南アジアではよく見る光景だが、初めて見た時は妙に感心してしまった。
今まで考えもしなかった、シンプルな答え。僕はまたひとつ世界を知ったのである!
難点を挙げるなら、ただでさえ薄いビールがさらに希釈されてしまうこと。
二人はIT系の会社で働くシステムエンジニア。
トニーが海老の身をほじくり出しながらいう。
「これからベトナムの経済はどんどん伸びていくはずだ。そして今必要とされているのはITの技術を持った人間だよ。それさえあればひっぱりだこだ」
「なるほどね」
「ベトナムの平均年齢って知ってる? 29歳だよ。だから国全体が若いパワーで溢れてるんだ」
僕はハノイで出会ったグエンやチンのことを思った。確かに、僕たち日本のアパシーまみれの若造よりは熱意のある目をしていた。
ドミトリーに帰ると、なんと、小柄な女性旅行者がせっせとベッドメイキングしているところだった。
僕を見てちょっとかしこまり「あ、どうも」という彼女。日本人か!
タイのチャンビールのTシャツに紫のサルエルパンツ、適当にまとめた髪と化粧っ気のない素朴な顔立ち。しかし肌の色はしっかりと白く、完全に日本社会を捨ててはいないことがわかる。
ああ、これが噂の一人旅系女子!
久しぶりの日本人! 不自由なく母語で話せる喜び! というか、女性と二人きりの部屋!
しかし、ここでがっついではいけない。
溢れる血の躍動をなんとか押さえつけ、僕は極めて紳士的に応対した。
彼女の名はマイコ。東京で看護師として勤務しており、今は長期休暇中。成田からバンコクへ飛び、カンボジアを経由してホーチミンへ到着。この後は北上し、僕とは真逆のルートでハノイまで行き、ハノイから飛行機で帰国する。
続いて僕の遍歴を話すと、彼女は少し面食らった。
「え、船ですか? すごいですね」
「いや、死ぬほど時間が余ってますからね。無職だし」
「いきなり中国……。なんだかたくましいですね」
「まあ、確かに鍛えられたような気がします」
「すごいなあ。私なんかかなり初心者ルートですよ」
「いやいや、女性の一人旅ってだけでマイコさんもすげーっすよ」
この褒め合い、称え合い。良いも悪いもない、僕は日本人なのだ。
お互いのこれから行くところについて情報交換をしているとドアがノックされ、ほろ酔いのドゥンが立っていた。彼は僕とマイコさんを交互に見やりちょっと固まった。
「オー、ジャパニーズガール! プリティ! ビューティフル!」
人の良さそうな印象はもろくも崩れ、ホーニーな彼はあからさまにマイコさんに接近していく。
「ご飯まだでしょ? 今から飲みに行こうよ!」
「おい、さっき食べたろ」
と僕がいってもそしらぬフリ。
猛烈なアタックにうんざりしている彼女だが、腹は減っているらしい。彼女は僕の方をチラッと見た。ならば仕方がない。男は辛いのである。
というわけで3人で小奇麗なレストランに入った。
4人がけの席を案内されると、マイコさんはさりげなく僕の隣に席を確保した。鮮やかなほどしたたかである。女性が一人旅するということは、こんなふうに言いよられることが今まで何度もあったのだろう。
主にドゥンばかりが話し、僕たちは適当に相槌を打った。
突然、店の奥からハゲた白人オヤジが出てきた。少しショーン・コネリーに似ている。片手にアコースティックギターを持ち、店の中央のちょっとしたステージのイスに座ると、おもむろにギターを構えた。
ワン、トゥー、スリー、とカウントをとって彼がはじめた曲は、ボブ・ディランの「風に吹かれて」。
やさしいアルペジオが店内に響く。さすがのドゥンも話すのをやめ、じっと耳を傾けている。
そうだ、答えなんかありゃしない。
だんだん酔いが回りつつある僕はショーンのしゃがれ声に深く感じ入った。
「ブラボー!」
僕は人一倍大きな歓声を上げた。ショーンと目が合う。ニヤリと笑う。
リクエストしろ、とせがまれ、気がつけば僕は舞台に登り、二人でCCRの「Have you ever seen the rain」を大熱唱していた。はゔゆーえゔぁーしーんざれいん。
僕は温暖な気候の土地で毎晩こうやって歌い、悠々自適に暮らしているであろうショーンがたまらなくうらやましく思った。唾棄すべき資本家め。
夜も深まり、それぞれの部屋に戻ろうとするのだが、一向にドゥンが離れない。僕たちのドミトリー部屋の入り口でたたずむ。
「カオル、きっと君は疲れているだろうから、女性のいる部屋で神経を使って寝るよりは、僕とトニーの部屋へ行った方がいい。代わりに僕がここで寝てあげよう」
「アホか」
思わず日本語が出てしまうほどの下心であった。
彼を追い返すと、マイコさんはベッドの上端にワイヤーを張り巡らし、そこに薄いブランケットを垂らして完璧に僕をシャットアウトした。
一人旅系女子に隙はない。